能力がある人は、仕事でも満たされやすいのでしょうか。
理解が速い。複雑な関係を整理できる。経験から先を予測できる。改善案を考えられる。そのような能力があれば、成果を上げ、評価され、仕事から満足を得られそうに見えます。
しかし現実には、能力があっても仕事に手応えを感じられず、自分の力が徐々に失われていくように感じる人がいます。反対に、特別に高い能力を自認していなくても、仕事との相性がよく、成長と貢献を実感しながら働く人もいます。
違いを生むのは、能力の絶対的な高さだけではありません。
能力は幸福を生み出す「生産設備」になり得る。しかし、それを動かせる課題、裁量、反応のある環境がなければ、設備は遊休化する。
本稿では、「自分は有能である」という自己評価の正しさを論じません。知能、知識、経験、対人能力などを含む広い意味での能力と、それを使う環境との適合から、仕事の満足を考えます。
能力は、それだけでは満足を生まない
高い能力は、さまざまな可能性を広げます。難しい問題を処理できる。新しいことを学びやすい。失敗を予測し、方法を改善できる。職業や生活上の選択肢を増やす場合もあります。
ただし、能力は潜在的な資源です。持っているだけで、満足や意味が自動的に生まれるわけではありません。
音楽の技能があっても、演奏する機会がなければ、その技能から得られる喜びは小さくなります。複雑な制度を理解する力があっても、決められた項目を転記する仕事だけが続けば、その力は仕事の中ではほとんど使われません。
このとき本人が失うのは、昇進や賃金だけではありません。
- 難しいことを理解できたという手応え
- 自分の判断が結果を変えたという感覚
- 昨日より上達したという成長感
- 誰かの役に立ったという実感
- 自分の能力と仕事がつながっているという一貫性
能力は、使用され、結果に結びつき、その結果が本人に返ってきたときに、初めて満足の供給源になります。
人と仕事の「適合」という考え方
組織心理学には、人と環境の適合を考える枠組みがあります。仕事との適合には、少なくとも二つの方向があります。
一つは、仕事が要求するものと、本人が提供できるものの適合です。仕事の難度や量が能力を大きく上回れば、失敗と疲労が増えます。しかし、要求が能力を大きく下回っても、能力を使う機会は失われます。
もう一つは、本人が仕事に求めるものと、環境が与えるものの適合です。本人が裁量、学習、社会への貢献を重視していても、職場が安定と手続遵守だけを与えるなら、仕事を正確にこなせても満足しないことがあります。
Kristof-Brownらの2005年のメタ分析は、人と仕事、人と組織、人と集団、人と上司の適合と、職務満足や組織への態度などの関係を整理しました。結果は、仕事の幸福が個人側の能力や性格だけで決まらず、相手となる環境との組み合わせに左右されることを支持しています。
ただし、適合が高ければ必ず幸福になるという単純な因果式ではありません。満足している人ほど自分と仕事が合っていると評価する可能性もあり、適合の測り方にも主観が含まれます。それでも、個人だけを測って適職を決めるより、仕事側の要求、報酬、裁量、価値観を同時に見る方が現実に近いでしょう。
不適合には「難しすぎる」と「易しすぎる」がある
仕事との不適合というと、能力不足がまず想像されます。要求が本人の処理能力を超えれば、ミス、長時間労働、不安、疲労が生じます。これは見えやすい不適合です。
一方、能力を使う機会が少なすぎる不適合は、外から見えにくいものです。
仕事は期限どおり終わる。大きな失敗もない。本人も忙しい場合さえあります。それでも、作業の大部分が反復、確認、転記、形式調整で占められ、判断や改善の余地がなければ、時間は使っていても能力は使っていません。
O'Brienの1982年の研究では、オーストラリアの被用者1,383人を対象に、技能活用、影響力、仕事の多様性、圧力、交流などと職務満足の関係を分析し、技能を使えているという認識が職務満足の有力な予測要因になりました。
また、Harariらの2017年のメタ分析は、自分の資格や能力が仕事に対して過剰だと感じる「知覚された過剰資格」が、平均的には職務満足や組織コミットメントの低さ、離職意思の高さなどと関連することを示しました。
ここで注意すべきなのは、資格が高い人は必ず不満になる、という意味ではないことです。過剰資格の認識は主観的であり、余力を安心や私生活に使いたい人もいます。仕事が易しいこと自体が悪いのではありません。
問題になるのは、本人が能力を使い、学び、結果へ影響したいと望んでいるのに、その経路が長く閉ざされている場合です。
忙しさと、能力を使うことは違う
能力が使われていない人に、さらに多くの仕事を与えれば解決するのでしょうか。
必ずしもそうではありません。
同じ種類の定型作業を二倍にしても、仕事量は増えますが、能力を使う範囲は広がりません。むしろ、退屈と疲労が同時に強まります。
能力の活用に必要なのは、量よりも仕事の質です。
- 方法を選べる裁量がある
- 少し難しい課題に取り組める
- 一部分ではなく、結果まで見届けられる
- 改善案を試す小さな権限がある
- 結果について具体的な反応が返る
- 経験が次の仕事に蓄積される
自己決定理論では、自律性、能力を発揮できる感覚、他者とのつながりを、動機づけやウェルビーイングに関わる基本的な心理的欲求として捉えます。Van den Broeckらの2016年のレビューも、職場におけるこれらの欲求と、動機づけ、態度、ウェルビーイングなどの研究を整理しています。
単に仕事を減らすだけでも、増やすだけでも足りません。本人が考え、選び、習熟し、結果とのつながりを感じられる設計が必要です。
組織はなぜ能力を遊休化させるのか
能力を十分に使えていない人がいるからといって、上司や組織が意図的に人材を無駄にしているとは限りません。組織には、能力を正確に見つけ、適切な仕事と結びつけにくい事情があります。
能力より、現在の役職と担当で仕事を割り振る
大規模組織では、個人に合わせて毎回仕事を設計することは困難です。人事異動、職位、前例、欠員補充によって配置が決まり、本人の強みは後から考慮されます。
能力の種類が評価表に載らない
複数の情報から共通構造を見つける力、将来の問題を予測する力、後任者が困らない仕組みをつくる力は、短期の処理件数には表れにくいものです。測りやすい成果だけで評価すれば、見えない能力は存在しないものとして扱われます。
失敗させないことが、成長させることより優先される
管理する側にとっては、慣れた仕事を確実に続けてもらう方が安全です。新しい役割を与えれば、教育、調整、失敗の責任が発生します。短期的な安定を優先するほど、本人の余力は活用されません。
仕事ができる人に、同じ仕事が集中する
正確で速い人には、組織が処理を急ぐ仕事が集まりやすくなります。信頼の結果ではありますが、同じ定型業務だけが増えれば、能力の活用ではなく能力への依存になります。
こうして、誰も「能力を潰そう」と考えていなくても、能力が使われない配置は再生産されます。これは個人の不満であると同時に、組織が保有する人的資本を稼働させていない状態でもあります。
本人は、なぜ自分を責めてしまうのか
能力と環境が合っていないとき、本人には別の説明が見えます。
「以前より集中できない」
「仕事への忍耐力がなくなった」
「贅沢を言っているだけではないか」
「本当に能力があるなら、どんな仕事でも成果を出せるはずだ」
しかし、長く使われない能力は、本人にも確認できません。難しい課題を解く機会がなければ、できるという感覚を保ちにくくなります。自信を失い、さらに挑戦を避け、ますます能力を使わなくなる循環も起こり得ます。
もちろん、すべてを環境のせいにすることも適切ではありません。本人の能力評価が過大な場合、必要な基礎技能が不足している場合、周囲との協働に課題がある場合もあります。
だからこそ、「自分は有能か無能か」という一つの軸ではなく、より具体的に見る必要があります。
- どの能力を使えていないのか
- その能力を示す過去の成果はあるか
- 仕事のどの部分なら小さく試せるか
- 仕事量、難度、裁量、評価のどこが合っていないのか
- 他の人や別の環境でも同じ問題が起きるか
人格の総合評価をするのではなく、能力と環境の接続部分を点検します。
適合を取り戻す四つの方法
能力と環境の不適合が分かっても、すぐに転職できるとは限りません。安定、収入、健康、家族、年齢、地域など、仕事には多くの条件が結びついています。
そこで、適合を取り戻す方法を、変更の小さい順に考えます。
仕事の中で、使う範囲を少し広げる
手順の改善、記録の整理、後任者向けの文書化、分析方法の工夫など、現在の担当の中で能力を使える部分を探します。ただし、善意による改善が仕事の上乗せになるだけなら長続きしません。試す範囲、使える時間、成果の扱いを確認する必要があります。
仕事の設計や配置を変える
仕事量を増やすのではなく、判断、分析、説明、改善といった異なる要素を加えます。組織側には、管理職への昇進だけでなく、専門性を深める経路や、本人の強みを確認する仕組みが必要です。
仕事の外にも能力の使用先を持つ
学習、創作、地域活動、副業が可能な場合の仕事など、能力を使う場所は勤務先だけではありません。仕事に生活のすべての自己実現を負わせなければ、組織との不適合が人生全体の無価値感に直結しにくくなります。
これは自律的幸福ポートフォリオ論で考えた、幸福源を一つに集中させない発想にもつながります。
環境から離れる選択肢を育てる
配置転換や転職を直ちに実行しなくても、必要な技能、収入、健康、制度、転職市場を調べることはできます。退出可能性があること自体が、「ここで耐え続けるしかない」という感覚を弱めます。
適職とは、能力を最大限使う仕事ではない
ここまでの議論から、「最も難しく、能力を限界まで使う仕事が最善だ」と結論するのも誤りです。
人は仕事以外にも、健康、家族、趣味、休息を必要とします。能力を最大限に使う仕事が、高い責任、長時間労働、不安定な雇用を伴うなら、人生全体の満足は下がるかもしれません。
また、同じ人でも、若い時期、子育て期、病気の治療中、退職前では、仕事に求めるものが変わります。成長を最優先する時期もあれば、予測可能性と余力を重視する時期もあります。
適職とは、能力を一〇〇パーセント稼働させ続ける仕事ではありません。
自分が使いたい能力を、生活を壊さない範囲で使い、その結果に納得できる仕事である。
能力の高さを競うのではなく、能力、仕事、生活の三つがどの程度かみ合っているかを見る。その方が、仕事の幸福を現実的に考えられます。
おわりに――問うべきは「どれほど有能か」ではない
仕事に満たされないとき、人は自分の能力か意欲の不足を疑います。組織は本人のやる気を問題にします。
しかし、能力も意欲も、環境から独立して働くものではありません。使う機会があり、少し難しい課題があり、方法を選べ、結果が返ってくる。その条件がそろって初めて、能力は満足と貢献を生みます。
能力があるのに満たされないという状態は、優越性の証明ではありません。本人と環境の接続がうまくいっていないという、一つの仮説です。
問うべきなのは、「自分はどれほど有能か」だけではありません。
自分のどの能力が、どこで、どのように使われ、その結果が何として返ってくるのか。
この問いに答えられる環境を持つことが、能力を幸福へ変える条件なのだと思います。
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