人が友人を選ぶ様子を見ていると、ときどき奇妙に感じることがあります。
自分より明らかに優れた相手に近づく人がいる一方で、自分の立場を脅かさず、少し優位でいられる相手とばかり親しくなる人もいるように見えるからです。
人は友人を選ぶとき、自分を傷つけない程度に「格下」の相手を選ぶことがあるのでしょうか。それとも、これは人間関係を疑いすぎた見方なのでしょうか。
この問いには、少し嫌な響きがあります。友情は本来、損得や優劣を超えたものだと考えたいからです。しかし、友情が親しい関係であるほど、そこに比較が入り込む可能性も高くなります。
先に、この記事の仮説を示します。
人は「格下」の相手を友人に選ぶというより、自分の価値を脅かし続けない相手との関係を残しやすいのではないか。
これは「人間は皆、見下せる友人を求めている」という断定ではありません。友情の中にある安心、比較、嫉妬、自尊心の動きを考えるための仮説です。
「格下」は、一つの物差しでは決まらない
まず、「格下」という言葉をそのまま人間の総合順位として使うことはできません。
人には、収入、学歴、職業、知識、容姿、社交性、家庭生活、体力、趣味の技量など、さまざまな側面があります。収入では相手が上でも、知識では自分が上かもしれません。仕事では成功していても、家庭の問題を友人に支えてもらっている人もいます。
つまり、友人同士の優劣は一本の階段ではなく、複数の物差しが交差したものです。
この記事でいう「格下」とは、客観的に価値の低い人ではありません。ある人が、自分との比較において脅威を感じにくい相手という主観的な位置づけを指します。
この定義に変えると、問題は「誰が上か」ではなく、次の問いになります。
- 何を比較しているのか
- なぜ、その比較が自尊心を傷つけるのか
- 相手の成功を喜べる場合と、喜べない場合の違いは何か
- 比較による不快感は、友情の選択や継続に影響するのか
人は、むしろ自分と似た相手を友人にしやすい
社会学では、自分と似た属性や考え方を持つ人同士が結びつきやすい現象を「同類性(ホモフィリー)」と呼びます。
McPherson、Smith-Lovin、Cookによる研究レビューは、年齢、学歴、職業、社会的地位、価値観などの類似性が、人間関係の形成と結びついていることを整理しています。
ただし、似た者同士が集まる理由は、好みだけではありません。同じ学校、職場、地域、趣味の集まりにいるから出会いやすい、という機会の構造もあります。
ここから分かるのは、人が友人を選ぶ基本原理は、単純な「自分より下を選ぶこと」ではないということです。全体としては、生活環境や関心、能力、社会的位置が比較的近い人との関係が生まれやすい。
しかし、「似ている」からこそ比較が起きます。
遠い成功者より、近い友人の成功が気になる
社会心理学者レオン・フェスティンガーは、1954年の社会的比較過程の理論で、人は自分の意見や能力を評価するため、他者と比較する傾向を持つと論じました。
比較の対象になりやすいのは、自分とかけ離れた人だけではありません。自分と似ていて、生活条件も近く、「自分も同じくらいであるはずだ」と感じる相手は、自分の現在地を測る基準になりやすいのです。
有名な経営者が莫大な資産を築いても、それを別世界の話として見られることがあります。ところが、同じ年齢、同じ学校、同じ職場だった友人が昇進し、収入を増やし、充実した生活を見せると、心が動くことがあります。
相手が近いほど、「あの人は成功した」という事実が、「それに比べて自分はどうなのか」という問いに変わりやすいからです。
友情は比較をなくすのではなく、ときに比較の解像度を上げます。
友人の成功を、喜べる場合と喜べない場合
親しい人の成功は、常に不快なものではありません。誇らしく思えることもあります。
この違いを説明するのが、心理学者アブラハム・テッサーの自己評価維持モデルです。
このモデルでは、親しい相手が優れた成果を上げたとき、二つの反応が考えられます。
一つは、相手の成功を自分のことのように誇らしく感じる「反映」です。自分が重要視していない領域で友人が成功した場合、「すごい友人がいる」と素直に喜びやすい。
もう一つは、相手の成功によって自分の評価が下がったように感じる「比較」です。自分も価値を置き、努力してきた領域で友人に大きく上回られると、成功を祝いたい気持ちと、自分が小さくなったような感覚が同時に生じ得ます。
重要なのは、相手の能力だけではなく、その能力が自分の自己評価にとって重要かどうかです。
友人が自分とは違う分野で活躍すれば誇りになる。同じ分野で、自分が欲しかった成功を先に得れば脅威になる。この違いは、「優れた友人が好きか嫌いか」だけでは説明できません。
子どもの友情選択が示した、単純ではない結果
テッサーらは1984年、米国の小学5、6年生270人を対象に、学校での成績、本人が重要だと考える活動、友人選択の関係を調べました。論文「Friendship Choice and Performance」では、子どもたちは全体的な能力が自分とよく似た相手を友人として挙げる傾向を示しました。
一方、本人にとって重要な活動では、友人が自分よりやや劣る方向が見られ、重要でない活動では、友人の方が優れている方向が見られました。
ただし、研究者自身が注意しているように、子どもたちが「能力の低い人」を友人に選んだわけではありません。友人同士の総合的な能力はよく似ており、本人にとって重要な活動にも関心を持ち、一定の成績を上げる相手が選ばれていました。
この研究だけで、大人の友情全般を説明することはできません。対象は子どもであり、学校内の活動を扱った研究だからです。
それでも、最初の疑問に一つの手がかりを与えます。
人は自分より劣る友人を求めるのではなく、似ていて理解し合える一方、自分の中心的な価値を完全には奪わない相手を選ぶことがある。
「選ぶ」より「残る」と考えた方がよい
友人関係は、採用面接のように条件を並べて選ぶものではありません。話が合う、一緒にいて楽しい、同じ時間を過ごしたという理由で自然に始まります。
だから、最初から「自分より下の人を探している」と考えるより、関係が続く過程を見る方が現実的です。
たとえば、同じ立場だった二人の間に、昇進、収入、結婚、子どもの進路、健康、社会的評価などの差が生まれる。相手の成功を祝っているつもりでも、会うたびに自分の停滞を確認させられる。反対に、成功した側も、話題を選び、成果を小さく見せなければならなくなる。
やがて連絡の回数が減り、友情が薄くなることがあります。
自己評価維持モデルから考えれば、人は比較の苦痛を減らすために、比較する領域の重要性を下げたり、相手との心理的距離を広げたりする可能性があります。ここから先は、先ほどの研究結果そのものではなく、理論を日常の友情に当てはめた推論です。
それでも、実感には合います。
人は「格下」を積極的に選ぶというより、自分の価値を脅かす状態が長く続いた関係から、静かに離れていくのかもしれません。その結果として、最後に残った友人が「自分を傷つけない相手」に見えるのです。
安心できることと、優越できることは違う
ここで、「安心」と「優越」を分ける必要があります。
安心できる友人とは、弱みを見せても利用せず、失敗を笑わず、成功しても関係を変えない相手です。互いに競争を持ち込まず、比較によって価値を決めなくてもよい関係です。
一方、優越できる友人とは、相手が自分より下にいることによって、自分の価値を確認できる関係です。この関係では、相手が成長した瞬間に均衡が崩れます。
外から見れば、どちらも「自分を傷つけない友人」に見えるかもしれません。しかし、関係の安定性は大きく違います。
- 安心は、相手が成功しても保てる
- 優越は、相手が成功すると失われる
- 安心は、弱さを交換できる
- 優越は、上下関係を固定しなければ続かない
友人の成功を喜べるかどうかは、その友情が安心に支えられているのか、優越に支えられているのかを映すことがあります。
自分より優れた友人を求める人もいる
もちろん、反対の行動もあります。
自分より知識や経験のある友人から刺激を受けたい。成功した友人を見て、自分にも可能性があると感じたい。自分にはない能力を持つ人を尊敬し、その人との会話によって世界を広げたい。こうした友情も存在します。
上方比較は、必ず自尊心を傷つけるわけではありません。比較対象との類似性を扱った実験研究でも、自分より優れた相手との比較は、条件によって落胆にも励みにもなり得ることが示されています。
違いを生むのは、相手の成功を「自分の敗北」と見るか、「自分にも近づける可能性」と見るかです。また、競合する一つの能力だけでなく、互いが持つ別々の価値を認められるかどうかも重要です。
ある領域では教わり、別の領域では支える。仕事では相手が上でも、人生の迷いについては自分が聞き役になる。長く続く友情は、完全な同格というより、複数の領域で価値を交換する関係なのかもしれません。
人間の卑しさだけで説明しない
「格下の友人を選ぶ人は卑しい」と断罪すれば、話は簡単です。しかし、それでは自尊心が人間関係に果たしている役割を見落とします。
人には、否定されずに話せる場所が必要です。常に評価され、競争させられる関係ばかりでは疲れます。自分の弱さや停滞を説明しなくてよい相手を求めること自体は、不自然ではありません。
問題になるのは、自分の安心を保つために、相手が下であり続けることを必要とするときです。
- 相手の成功を茶化す
- 新しい挑戦を「無理だ」と止める
- 失敗したときだけ親切になる
- 自分を超えそうになると距離を置く
- 助言を装って、元の位置へ戻そうとする
こうした行動が繰り返されるなら、その関係は友情よりも、自尊心を維持する装置に近づきます。
良い友情とは、優劣がないことではない
人間が他者と比較する以上、友情から優劣の感覚を完全に消すことは難しいでしょう。
友人の方が収入が多い。自分の方が知識がある。相手の方が人に好かれる。自分の方が困難への対処を知っている。比較はなくならなくても、それを人間全体の順位に変えなければ、関係は保てます。
良い友情とは、二人の能力や境遇が完全に同じ関係ではありません。
相手の成功によって、自分の存在価値まで否定されたとは感じない。嫉妬が生じても、それを相手の価値を下げることで処理しない。互いに得意な領域が変わっても、関係を組み直せる。
そのような関係ではないでしょうか。
最初の問いに戻ります。
人が、自分を傷つけない程度に「格下」の相手を友人として選ぶことは、あり得ると思います。社会的比較と自己評価維持の研究は、その可能性を完全には否定しません。
しかし、人間は一律に、自分より劣る人を友人に選んでいるわけでもありません。研究が示す基本像は、むしろ似た者同士の結びつきです。そして、その中で自分にとって重要な領域の比較が、親しさを支えたり、壊したりします。
良い友情とは優劣が存在しない関係ではなく、互いの自尊心を不必要に傷つけず、それでも相手の成長を妨げずにいられる関係なのかもしれない。
「格下」という違和感のある言葉から始めても、最後に問うべきなのは相手の順位ではありません。
その友情は、相手が成長しても続くのか。
そこに、安心と優越の違いが表れるように思います。
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