父が以前、「上級国民」という言い方は好きではない、と話したことがありました。
少し印象に残りました。
父は、社会の上層にいる人や、制度の中枢に近い人を、まったく知らなかったわけではありません。むしろ、私より間近で見てきた部分があったはずです。それでも、「上級国民」という言葉を好まなかった。
なぜだろうと考えました。
おそらく父には、それが品のない階級憎悪の言葉に聞こえたのではないでしょうか。そして私自身にも、マスメディアやSNSが国民の間の分断を煽るときに使う、便利すぎる言葉に聞こえます。
ただし、ここで誤解してはいけません。
現実に格差はあります。資産、所得、教育、家族の人脈、専門家へのアクセス、政治への影響力には大きな差があります。社会的地位によって扱いが違うのではないかと疑うべき事件もあります。
それらを語ること自体が下品なのではありません。
「上級国民」という言葉の品のなさは、格差を指摘することではなく、異なる種類の格差を、正体不明の悪人集団への侮蔑に変えてしまうところにある。
本稿では、言葉遣いの礼儀だけを問題にしません。この言葉が何を可視化し、同時に何を見えなくするのかを考えます。
「上級国民」は、怒りから広がった言葉である
「上級国民」は公的な身分名称でも、社会科学上の階級区分でもありません。主としてインターネット上で、一般の人とは違う特別な扱いを受けているように見える人を指す言葉として広がりました。
2015年の東京五輪エンブレムをめぐる騒動ですでに使われ、2019年の池袋暴走事故を契機に爆発的に広がったとされています。2019年には新語・流行語大賞の候補語にも入りました。当時の候補語一覧にも「上級国民」が含まれています。
池袋の事故では、重大な結果を生じさせた元官僚が事故直後に逮捕されず、報道で「容疑者」ではなく肩書付きで呼ばれたことなどから、「地位の高い人物だから特別扱いされたのではないか」という疑念が強まりました。
市民が、法の下の平等に疑問を持つことは正当です。捜査機関やメディアは、扱いの違いに合理的な理由があるなら説明する責任があります。
つまり、この言葉が支持された背景には、単なる嫉妬ではなく、制度は本当に誰に対しても同じように動くのかという重要な問いがありました。
問題は、その問いが「上級国民」という一語で答えまで与えられたように見えることです。
誰が「上級」なのか、定義できない
「上級国民」と呼ばれる人を並べてみると、共通の基準がないことに気づきます。
- 多額の資産を持つ人
- 大企業の経営者
- 政治家や高級官僚
- 著名な学者や医師、法曹
- 世襲によって地位を得た人
- 有名人や高所得の会社員
- 安定した雇用を持つ公務員
- 事件で特別扱いされたように見える人
これらは同じではありません。
高所得でも資産がなく、働けなくなれば生活が崩れる人がいます。資産はあっても政治的な影響力を持たない人もいます。著名な専門家に連絡できる人と、選挙や政策決定へ影響を与えられる人も違います。公務員は安定した雇用を持ちますが、そのことだけで巨大な資産や法外な権力を持つわけではありません。
「上級国民」という言葉は、次の別々のものを混ぜています。
- 経済資本――所得、金融資産、不動産、企業所有、相続
- 社会関係資本――有力者、専門家、組織へ到達できる人脈
- 文化・情報資本――制度を理解し、専門知識を使いこなす力
- 組織上の権力――人事、予算、規制、政策を決める権限
- 法的・行政的な優位――捜査、処分、許認可などでの例外的な扱い
- 再生産力――優位を子や孫へ引き継げる仕組み
本当に格差を分析するなら、どの資本や権力をどの程度持っているかを分ける必要があります。
ところが「上級国民」は、すべてを一つの身分へまとめます。その結果、言葉を使う人の不満に応じて、かなり広い範囲の人が「上級」に入ります。
自分より給与が高い。雇用が安定している。親が有力者だ。専門家と知り合いだ。説明が庶民感覚とずれている。
基準が動く言葉は、厳密な分析には使えません。しかし、敵を作る言葉としては非常に使いやすいのです。
「恵まれている」と「特権階層である」は違う
以前、私自身の家について考えたことがあります。
一時期、専門家や組織との人的なつながり、制度を理解して利用する文化・情報資本は、ある程度あったと思います。いわば「上層に接続していた家」ではあった。
しかし、政治や財界に恒久的な権力を持つ家ではありませんでした。資産と地位を何代にもわたり自動的に再生産できる家でもありません。父は普通の公務員であり、私の世代まで同じ地位が当然に引き継がれたわけでもありません。
この例が示すのは、家柄を誇る話ではありません。
社会的な位置は、「上級か一般か」の二択では表せないということです。
- 過去には強い接続があったが、現在は弱くなった家
- 文化資本は継承したが、経済資本は継承しなかった家
- 高所得だが、雇用を失えば維持できない家
- 資産はあるが、制度への影響力はない家
- 権限はあるが、任期が終われば失う人
現実の社会には、このような中間形態が無数にあります。
「恵まれている点がある」と認めることと、「だから同じ特権階層だ」と決めることは違います。逆に、自分が恒久的な上位層でないことを理由に、持っている優位を否定するのも不誠実です。
必要なのは、優位の有無を一項目ずつ認め、その強さと持続性を確かめることです。
なぜ「品がない」と感じるのか
「品」という言葉は曖昧です。高級な作法を身につけていることでも、権力者へ遠慮することでもありません。
ここでいう品は、自分が怒っているときにも、相手を一人の人間として扱い、事実と推測を分ける節度です。
「上級国民」という言葉には、その節度を壊しやすい性質があります。
人格と属性を一括して裁く
具体的な行為を批判する代わりに、「上級国民だから」と説明すれば、その人の発言、財産、家族、職歴まで疑いの対象になります。
何をしたかではなく、何者であるかを罪にする方向へ近づきます。
根拠を示さなくてよくなる
不当な利益供与があったなら、その決定、手続、関係者、金額を示すべきです。しかし「上級国民への忖度」で説明すると、証拠がなくても、疑いそのものが証明のように扱われます。
相手の反論を封じる
「自分は特別扱いされていない」と反論しても、「上級国民には自覚がない」と返せます。否定することさえ、特権の証拠になる。これでは検証可能な議論になりません。
下にいる者の正しさを自動的に保証する
弱い立場の人が不利益を受けていることと、その人の主張がすべて正しいことは別です。被害や不平等を直視しながら、個々の主張は証拠によって検討しなければなりません。
処罰の快感を、改革と取り違える
裕福な人、公務員、政治家、専門家の待遇が下がれば、相対的な差は縮まります。しかし、それだけで困っている人の所得、教育、医療、住居が改善するとは限りません。
誰かを引きずり下ろすことは目に見えます。制度を直して生活を底上げすることは時間がかかります。「上級国民」という言葉は、前者を後者の代わりにしやすいのです。
階級分析と、階級憎悪の違い
格差を分析することまで「分断を煽る」と退ければ、現状の権力者に都合がよくなります。したがって、階級分析と階級憎悪を明確に区別する必要があります。
階級分析は、次のように問います。
- 資産と所得は誰にどの程度集中しているか
- 教育機会は親の所得や居住地にどれほど左右されるか
- 政策決定へ接近できるのは誰か
- 税、補助金、規制は誰に利益を与えるか
- 捜査や処分の基準は一貫しているか
- 優位は次世代へどの仕組みで継承されるか
対象は人の尊厳ではなく、資源と制度の分配です。証拠が増えれば結論を修正できます。
階級憎悪は、次のように語ります。
- あの人たちは庶民と違う
- 上にいる人は裏でつながっている
- 成功したのは実力ではなく特権だけだ
- 苦労を知らないから人間性がない
- 引きずり下ろせば公平になる
対象が制度から人格へ移り、集団全体を一つの意志を持つ敵として扱います。反証する方法もありません。
階級分析は「どの仕組みが不平等を作るか」を問う。階級憎悪は「どの人間を憎めばよいか」を教える。
この違いは大きいと思います。
怒りは、メディアとSNSにとって扱いやすい
「上級国民」は短く、意味を説明しなくても感情を共有できます。見出し、動画のサムネイル、短い投稿に向いています。
しかも、この言葉は読み手に役割を与えます。
「上級国民」がいるなら、自分は理不尽に扱われる「一般国民」です。複雑な制度の被害者と加害者が、一語で確定します。
SNS上の怒りについてのBradyらの研究は、人々が投稿者の道徳的憤りを、投稿者自身が実際に感じていた程度より強く知覚する傾向を示しました。その過大知覚は、集団間の敵意、敵対的なコミュニケーション規範、政治的な極端さについての認識も膨らませました。政治情報をSNSから多く得る人ほど、この傾向が強かったと報告されています。
これは米国のTwitter利用者を中心とした研究であり、日本の「上級国民」言説を直接調べたものではありません。それでも、画面上で見る怒りが、社会全体の敵意を実際以上に強く感じさせる可能性は、この言葉の広がり方を考える手がかりになります。
また、政治、ニュース、社会運動の発信者による投稿と、その返信約3550万件を分析したSolovevらの研究では、道徳化された言葉が多い投稿ほど、返信にヘイトスピーチが現れる確率が高いという関連が報告されました。これも因果関係を一つに決める研究ではありませんが、相手を道徳的に断罪する言葉が、対話を穏やかにするとは限らないことを示します。
メディアが意図的に国民を分断していると、すべての事例について断定することはできません。しかし、複雑な格差の説明より、善良な一般国民と傲慢な上級国民を対置した方が、短く、感情を動かし、反応を得やすい。その商業的な誘因は存在します。
公務員のボーナス報道も同じ構造を持ちます。公務員の平均賞与を報じることには公共性がありますが、比較条件を外して「恵まれた公務員」と「苦しい民間」を対置すれば、勤労所得で暮らす人どうしの対立が生まれます。
本当の大きな格差より、近くにいる、姿の見える相手との差が強く意識されるのです。
「上級国民」という批判が当たる場合もある
ここまで書くと、特権を持つ側を擁護しているように見えるかもしれません。
そうではありません。
現実に、次のようなことが確認できるなら、厳しく追及すべきです。
- 同じ行為なのに地位によって捜査や処分が違う
- 政治家や官僚の関係者だけが入札や補助金で優遇される
- 規制を作る側と利益を受ける側の間に不透明な移動がある
- 富と政治的影響力が結びつき、一般市民の声が届かない
- 親の資産や人脈によって教育、就職、地位が固定される
- 失敗の費用は国民が負い、利益だけが特定の人へ残る
しかし、そのとき必要なのは「やはり上級国民だった」という結論ではありません。
誰が、いつ、どの権限を使い、通常と違うどの判断をし、誰にどれだけの利益を与えたのか。比較すべき通常の基準は何か。監査、情報公開、司法、議会による検証が機能したか。
具体的に問うほど、責任の所在は明確になります。
曖昧な言葉を捨てることは、批判を弱めることではありません。むしろ、逃げられない形に批判を強くすることです。
公正を求める言葉へ置き換える
「上級国民」と言いたくなる場面で、一度、より具体的な言葉へ置き換えてみます。
- 裕福な人への不満――資産・所得・相続への税負担は適正か
- 世襲への不満――教育、採用、公認、事業承継の入口は公平か
- 官僚への不信――裁量の基準、再就職、情報公開は適正か
- 政治家への不信――献金、利益相反、政策決定過程は公開されているか
- 事件での特別扱いへの疑念――同種事案と比べ、捜査・報道・処分の基準は同じか
- 専門家への反発――根拠、利益相反、誤りの訂正過程は示されているか
これらの問いは地味です。怒りを一瞬で共有する力も弱いでしょう。
しかし、制度を変えられるのは、この具体性の方です。
おわりに――品とは、格差を見ないことではない
父が「上級国民」という言い方を好まなかった理由を、本人から詳しく聞いたわけではありません。したがって、ここまでの解釈は私の推測です。
それでも、父が感じたらしい違和感は、私にも理解できます。
社会には確かに、資産、所得、人脈、知識、権限、法的な扱いの差があります。その差を隠し、「みんな同じ国民だ」と言うだけでは、公正にはなりません。
一方で、その複雑な差を「上級国民」という一つの身分にまとめれば、私たちは制度ではなく人間を憎むようになります。誰が上級かを認定する争いが始まり、昨日まで隣にいた勤労者さえ、少し待遇がよいという理由で敵になります。
国民総中流という共通の生活像が崩れた社会では、この境界は下へ下へと動きます。
賞与がある。正規雇用である。持ち家がある。親から教育を受けた。公務員である。専門家を知っている。
本来なら、より多くの人が持てるようにすべき安定や接続まで、「上級」の証拠として攻撃されるかもしれません。
品とは、格差を見ないことではない。怒りによって人を記号へ変えず、不公正の仕組みを最後まで具体的に見ることである。
「上級国民」という言葉を使わなくても、特権は批判できます。不正は追及できます。格差の再生産を止める政策も議論できます。
むしろ、その言葉を使わない方が、何が問題なのかを正確に語れます。
誰を憎むべきかではなく、どの制度を直すべきか。
父が嫌ったのは、おそらく、社会の上下を語ることではありません。複雑な現実を一つの蔑称へ縮め、その言葉に乗って人間への敬意まで失っていくことだったのではないか。
私は、そのように考えています。
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