18歳で、自分が一生続ける仕事を決められるでしょうか。
料理人になる。大工になる。看護や介護の仕事に就く。機械を整備する。電気工事をする。すでに強い希望があり、そのための教育を選べる人なら、大学が唯一の進路ではありません。
しかし、多くの18歳は、そこまで明確な意思を持っていません。
得意なことはまだ分からない。働いた経験もほとんどない。親と学校以外の世界を十分に知らない。それでも高校を卒業する時点で、進学か就職かを選ばなければなりません。
そのとき大学は、専門知識を得る場所であるだけでなく、結論を急がずに済む4年間でもあります。
友人を作る。一人で暮らす。アルバイトをする。恋愛する。興味のなかった分野に触れる。失敗する。自分がどのような生活を好み、何に耐えられないのかを知る。
これらは履修証明書には載りません。しかし、人生を決めるうえでは、講義と同じくらい大きな意味を持つことがあります。
大学の定員を減らすとは、教育サービスの供給量を減らすことだけではない。一部の18歳から、進路を決めるまでの時間を取り上げることでもある。
本稿では、すべての大学を残すべきだとも、全員が大学へ行くべきだとも主張しません。
私立大学の定員を減らし、人手不足の技能職へ若者を移す政策には、国全体から見れば合理性があります。ただし、その合理性と、進路を変えさせられる本人の幸福は同じではありません。
大学には、少なくとも四つの機能がある
大学の価値を論じるとき、私たちは「何を学んだか」と「就職に役立ったか」を尋ねます。
もちろん、これは重要です。高い学費と4年間を使う以上、教育の質や卒業後の見通しを問う必要があります。
しかし、大学が実際に担っている機能は、少なくとも四つあります。
- 教育――専門知識、思考法、研究の方法を学ぶ
- 選抜と資格――採用市場で大卒として評価される
- 人間関係――同世代や教員、異なる地域の人と出会う
- モラトリアム――生活と関心を試しながら、進路を考える時間を得る
大学改革では、第一と第二の機能が中心になります。授業は充実しているか。卒業率はどうか。就職実績はどうか。
第三と第四は測りにくいため、「遊んでいるだけ」「社会に出るのを先延ばししているだけ」と見なされやすい。
しかし、先延ばしには価値があります。
18歳で誤った進路を選ぶより、22歳までに自分を知る。親元を離れて初めて、自分の生活能力や孤独への耐性を知る。学問よりアルバイト先の仕事に適性を見つけることもある。逆に、働いてみて初めて、学ぶ必要を理解することもあります。
効率だけを見れば遠回りです。人生全体から見れば、早すぎる固定を避けるための保険です。
私大定員削減には、政策としての論理がある
少子化が進むなか、すべての大学と定員を維持することは難しくなります。学生が集まらない大学を公費で支え続けるべきか、教育の質を保てるのか、地域から若者を都市へ集めるだけになっていないか。こうした問いは避けられません。
同時に、日本では現場を支える人材が不足しています。建設、整備、運輸、介護、製造などでは、技能を持つ人の確保が企業や地域の存続に関わります。
生成AIの普及も、この議論を強めます。ILOの2025年の分析では、事務職が最も生成AIへの曝露が高い職種であり、世界の労働者の4人に1人が何らかの曝露を持つ仕事に就いていると推計されています。
ただし、ILOが強調するのは大量失業の確定ではなく、仕事の一部が変わる可能性です。したがって、「ホワイトカラーは消えるから大学はいらない」とまでは言えません。
それでも、大卒者を一律に事務職へ送り出す仕組みを拡大し続けるより、社会に必要な技能職へ若者が向かうほうがよい、という政策判断は成り立ちます。
私大の定員を減らす。大学へ進む若者が減る。高卒で技能職へ入る若者が増える。人手不足が緩和される。それでも人が足りなければ、企業は賃金や休日、訓練制度を改善する。
この因果は、可能性としてはあります。
問題は、その変化を「誰が」引き受けるかです。
影響を受けるのは、最初から大学へ行かなかった人ではない
定員を減らしても、大学進学を強く望み、学力と資金のある人は進学するでしょう。
最も影響を受けるのは、削減前ならどこかの大学へ入れたが、削減後には入れなくなる人です。
つまり、進学と非進学の境界にいる若者です。
この人たちは、もともと技能職を選んでいた人ではありません。大学へ進み、4年間を過ごし、その後に就職する人生を想定していた可能性があります。
定員削減によって技能職の人材が増えたとしても、それは政策が空白から労働力を生み出したのではありません。ある人が持っていた進学の可能性を狭め、その人を別の場所へ動かした結果です。
国の統計では、労働力の適正配置に見えます。本人から見れば、選べたはずの人生が一つ減ります。
文部科学省の2025年度データでは、普通科高校から大学等への進学率は71.8%、就職率は6.1%でした。一方、職業学科では大学等進学率26.3%、就職率47.2%です。
この差は重要です。
普通科高校の3年間は、多くの生徒にとって大学進学を前提に組まれています。国語、数学、英語、理科、社会を学び、入試に備える。職業学科のように、特定の仕事へ接続する実習や資格取得を中心にしているわけではありません。
その普通科生に、卒業直前になって「大学枠を減らしたので、これからは技能職へ」と言っても、自然な移動にはなりません。
18歳の本人に意欲がないからでも、技能職を見下しているからでもない。その進路を具体的に考え、試し、準備する時間が制度の側に用意されていないのです。
技能職の処遇が上がれば、本人も幸福になるのか
若者が技能職へ向かい、それでも人手が足りなければ、企業は待遇を改善せざるを得ません。
賃金が上がる。休日が増える。道具や設備が改善する。見習い期間にも給与が出る。技能が社外でも通用する資格として認められる。
こうした変化は望ましいものです。大学だけが良い進路で、技能職はその下にあるという見方も改めるべきでしょう。
しかし、技能職の待遇が改善したことと、大学へ行けなくなった本人の人生が改善したことは同じではありません。
たとえば、18歳から給料を受け取り、数年で技能を身につけ、大卒者より早く経済的に自立できる人もいます。その人にとって、大学へ行かない選択は優れた選択になり得ます。
一方で、本当は大学へ行きたかった人、やりたいことを探す時間が必要だった人、学外活動や友人関係を含む学生生活を経験したかった人もいます。
賃金だけを比較すれば、後者の損失は見えません。
失ったのは4年分の給与ではなく、4年分の選択可能性だからです。
「若者でいられる時間」は、ぜいたくなのか
大学の4年間をモラトリアムと呼ぶと、否定的に聞こえます。
しかし、人間は18歳から突然、完成した職業人になるわけではありません。
若いうちにしかできない経験があります。長い休みに旅行する。収入にならない活動に熱中する。友人と夜まで話す。価値観の違う人に出会う。失敗しても、家族や学校という足場へ戻れる。
こうした時間を、社会全体がすべての若者へ無償で保障できるわけではありません。大学生活にも学費がかかり、奨学金という負債を背負う人がいます。授業にほとんど参加せず、目的を見つけられないまま卒業する人もいます。大学という形が、誰にとっても最善とは限りません。
それでも、経済的な生産性に直結しない時間を「無駄」と切り捨てれば、その時間を持てるのは裕福な家庭の子どもだけになります。
定員削減後も、資金のある家庭は浪人、留学、私的な訓練を選べます。余裕のない家庭の18歳は、すぐ働く以外の選択を失いやすい。
すると定員削減は、大学の質を高める政策であると同時に、誰に若者期を認め、誰に早い成人化を求めるかを決める政策になります。
理想的な技能職モデルを描くだけでは足りない
この問題への答えとして、魅力的な技能職のモデルを描くことはできます。
- 18歳から有給で訓練を受ける
- 初年度から生活できる給与を得る
- 数年で賃金が着実に上がる
- 年間休日を十分に確保する
- 会社を替えても通用する資格を得る
- 希望すれば後から大学へ編入できる
もし実現すれば、大学とは異なる、魅力ある若者期になります。
しかし、これは現状の説明ではありません。制度設計の完成図です。
中小企業が訓練費用を負担できるのか。繁忙期にも休日を守れるのか。社内技能を誰が共通資格へ変えるのか。働きながら大学へ移る時間と学費を誰が保障するのか。
ここへ答えないまま「これからは技能職にも夢がある」と言えば、政策の不都合を理想像で隠すことになります。
必要なのは、夢のあるモデルを掲げることではなく、それを現実にする費用と責任の所在を示すことです。
国全体の合理性と、本人の合理性は一致しない
少子化社会では、限られた若者をどこへ配置するかという問題から逃れられません。
大学の定員を維持すれば、技能職の人手不足が深刻になるかもしれない。定員を減らせば、大学経営の持続可能性や教育の質は改善するかもしれない。国家としては、全体を見て判断する必要があります。
しかし、国にとって合理的な配置が、本人にとって望ましい人生とは限りません。
これは、雇用の安定と退出費用で考えた問題と同じです。全体の生産性を高めるために人を動かしても、移動の危険や損失を個人だけに負わせれば、その改革は公正ではありません。
私大定員削減でも、利益は社会全体へ薄く広がります。人手不足の緩和、大学教育の質の維持、財政負担の抑制。
一方、損失は特定の18歳へ集中します。進学できなかったこと、準備のない職業選択、大学生活を送れなかったこと、将来の進路変更が難しくなること。
全体最適という言葉は、この集中を消してくれません。
問うべきは、大学を残すかではなく、何で代替するか
すべての私立大学を現在のまま維持することは、現実的ではありません。学生が減る以上、統合や縮小、退出は起こります。
だからこそ、議論は「大学が多すぎる」「技能職が足りない」で終わってはいけません。
少なくとも、次の条件が必要です。
高校在学中に、仕事を試せること
普通科でも、複数の職場を短期間経験し、現場の技能や働き方を知れるようにする。卒業時に突然決めさせるのではなく、早い段階から選択肢として見えるようにします。
訓練を若者の自己負担にしないこと
技能形成を「見て覚えろ」で済ませず、有給の訓練時間、指導者、共通の資格を用意する。その費用を採用した一社だけに負わせれば、制度は広がりません。業界と公的部門の負担が必要です。
後から進路を変えられること
18歳の選択を不可逆にしない。働いた経験を大学の単位として評価する、夜間やオンラインだけに頼らない履修の余地を作る、学費と生活費を支える。
「学び直せます」と言うだけでは足りません。疲れて働く人が、本当に使える時間割と金銭条件でなければなりません。
就職率だけで政策を評価しないこと
卒業直後に就職した人数だけでなく、5年後、10年後の賃金、健康、離職、資格、進路変更、生活満足度を見る。すぐ働いたことと、良い職業人生を得たことを区別します。
削減の基準と負担の分布を公開すること
どの地域、所得層、学力層の進学機会が減るのか。誰が利益を得て、誰が選択肢を失うのか。大学単位の経営問題だけでなく、若者側の分布を示す必要があります。
これらには費用がかかります。
しかし、その費用を払わずに大学だけを減らせば、節約されたのではありません。準備不足、早期離職、進路の固定、失われた経験という形で、若者へ付け替えられただけです。
おわりに――奪うなら、代わりを示さなければならない
大学は教育機関です。学ぶ内容と質を問われるのは当然です。
同時に、大学は、18歳の若者をすぐに完成した労働者として扱わずに済む仕組みでもあります。
私大の定員を減らせば、技能職へ向かう若者は増えるかもしれません。人手不足が処遇改善を促し、結果として大学進学とは別の良い人生が増える可能性もあります。
その可能性を否定する必要はありません。
ただし、「技能職の待遇が上がるかもしれない」という社会全体の期待だけで、削減前なら大学へ行けた人の損失を正当化することもできません。
本人が失うのは、学位だけではありません。
若者でいられる時間。自分を試す時間。結論を保留する時間。異なる人に出会う時間。そして、22歳の自分が18歳の自分とは違う選択をする可能性です。
若者を技能職へ送るなら、仕事だけでなく、大学が担っていた時間と選択肢を何で代替するかまで答える必要がある。
大学へ行く権利が無制限にあるわけではありません。すべての大学を守る必要もありません。
問うべきなのは、人口減少の調整費用を、進路をまだ決め切れない18歳へ黙って負わせてよいのか、ということです。
大学の価値は、教育だけでは測れません。
そして大学を減らす政策の価値も、大学の数だけでは測れないのです。
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