「仕事に不満があるなら、辞めればよい」
この言葉は、一見すると合理的です。現在の職場が合わないなら、よりよい環境へ移ればよい。転職が一般的になった社会では、同じ組織に残り続けることの方が、消極的な選択に見える場合さえあります。
しかし、雇用が安定し、勤続が長い人ほど、転職は単純な比較になりません。
現在の仕事を辞めることは、給与だけでなく、雇用保障、退職給付への期待、休暇、信用、慣れた制度、人間関係、通勤、組織内で通用する知識を同時に手放すことだからです。次の仕事が今よりよいという保証もありません。
安定した仕事は、生活を守る資産である。しかし、資産が大きくなるほど、それを手放す費用も大きくなる。
これは安定を否定する議論ではありません。むしろ、安定に大きな価値があるからこそ生じるパラドックスです。
本稿では、なぜ「不満があっても残る」という選択が合理的になり得るのかを、雇用保障と退出費用の関係から考えます。
安定には、目に見えない経済価値がある
安定した職業の価値は、毎月の給与額だけでは測れません。
- 来月も雇用が続くという予測可能性
- 収入を前提に住居や生活を設計できること
- 病気や景気悪化によって直ちに職を失いにくいこと
- 有給休暇、福利厚生、退職給付などの制度
- 長く働くことで得られる組織内の信用
- 仕事の手順と人間関係を理解していること
これらは、生活上の危険を小さくします。特に、年齢、健康、家族、住宅費などの制約がある人にとって、予測可能な収入と雇用は、単なる「保守性」ではなく生活基盤です。
転職先の提示年収が現在と同じでも、雇用の確実性、休暇の取りやすさ、仕事量、通勤時間、職場文化が不明なら、両者の価値は同じではありません。
安定とは、所得の平均値を上げるものというより、人生の下振れを小さくする保険に近いものです。その保険を失う可能性まで含めれば、少しの不満だけで辞めないことには十分な理由があります。
人は仕事に「埋め込まれて」いく
人が組織に残る理由は、満足しているからだけではありません。
組織行動研究には、ジョブ・エンベデッドネス(職務への埋め込み)という考え方があります。Mitchellらの2001年の研究は、人が仕事にとどまる力を、主に三つの要素から捉えました。
適合――自分と環境がかみ合っている
仕事内容、組織文化、生活地域などが本人に合っていることです。完全に満足していなくても、通勤、生活時間、周囲との距離、慣れた仕事の進め方が自分の生活に収まっていれば、別の環境へ移る必要性は小さくなります。
つながり――関係が組織と生活を支えている
同僚、上司、取引先、家族、地域との関係です。勤続が長いほど、「誰に聞けばよいか」「どこまで頼めるか」という見えないネットワークが形成されます。転職すれば、その関係を一からつくり直す必要があります。
犠牲――辞めることで失うものがある
給与、退職給付への期待、休暇、福利厚生、昇進可能性、通勤の利便性、組織内の信用などです。現在の職場に不満があっても、辞めることで失うものが大きければ、人は残ります。
Jiangらの2012年のメタ分析は、65の独立した標本、合計4万2,907人を対象とする研究を統合し、職場内外への埋め込みが、職務満足、組織への情緒的な結びつき、転職先の選択肢などを考慮した後でも、離職意思や実際の離職と関連することを示しました。
つまり、現在の仕事を好きか嫌いかだけでは、辞めるかどうかを説明できません。人は、仕事の周囲に張り巡らされた生活全体との関係の中で判断しています。
勤続が長いほど、退出費用が積み上がる
安定した組織に長くいると、残る利益と辞める費用が同時に積み上がります。
報酬が将来へ繰り延べられる
年功的な賃金、昇進、退職給付など、長く残ることで得られる報酬が大きい制度では、途中で辞める費用が高くなります。現在の処遇だけでなく、「ここまで勤めたのだから、あと何年か残れば得られるもの」まで比較対象になるからです。
これは過去に費やした時間だけを惜しむ、単純な埋没費用とは限りません。将来受け取る可能性のある便益を失うという、現実の機会費用が含まれます。
組織の中でのみ高く評価される技能が増える
長く働けば、規程、内部手続、組織固有のシステム、非公式な調整方法に詳しくなります。その知識は現在の仕事では大きな価値を持ちます。
一方、外部の採用担当者には価値が見えにくく、別の組織でそのまま使えないことがあります。これは企業や組織に固有の人的資本です。
日本の長期雇用では、組織内の配置転換とOJTを通じて技能を形成する面が強くありました。JILPTが2024年に整理した労働経済学研究でも、勤続年数や経験年数の賃金への効果と、企業特殊的・一般的人的資本を区別する研究が紹介されています。
組織固有の技能が無価値なのではありません。現在の組織で生産性を高める重要な資産です。問題は、その技能を外部の言葉へ翻訳しなければ、市場で評価されにくいことです。
外の労働市場を知らない期間が長くなる
長く転職活動をしていなければ、自分の経験が外でどう評価されるか分かりません。求人票の読み方、職務経歴書、面接、業界の賃金相場、人材紹介会社との付き合いも、使わなければ慣れを失います。
外部市場が分からないこと自体が不確実性になります。そして、不確実性が大きいほど、現在の職場の欠点より、未知の転職先の危険を重く見積もるようになります。
生活が安定収入へ最適化される
住宅、固定費、家族への責任、治療、将来の年金設計などは、現在の安定収入を前提に組み立てられます。生活が安定することは望ましい一方、必要所得が高くなれば、収入が下がる転職を試しにくくなります。
こうして、勤続によって現在の組織での価値は上がるのに、外へ移る選択肢は相対的に狭くなることがあります。
年齢が上がれば、転職は本当に不利なのか
「中高年の転職は必ず賃金が下がる」と決めつけることはできません。
厚生労働省の2024年雇用動向調査では、転職入職者全体で、前職より賃金が増えた人は40.5%、減った人は29.4%でした。転職によって賃金が上がる人の方が多かったことになります。
しかし年齢別に見ると、55~59歳では、増加が27.4%、減少が36.6%となり、関係が逆転しています。50~54歳までは増加が減少を上回るため、50歳を境に一律に不利になるわけでもありません。
この統計の解釈には注意が必要です。対象は実際に転職し、調査時点で雇用されている人です。転職の危険が大きいと考えて動かなかった人や、希望する再就職に至らなかった人は、この賃金比較には十分表れません。また、賃金が上がっても、雇用の安定性や労働時間まで改善したとは限りません。
それでも、転職が常に損失になるわけではない一方、年齢とともに下振れの可能性を無視しにくくなることは読み取れます。
公務員や大企業では何が起きやすいか
雇用保障が比較的強く、内部の人事異動でキャリアを形成する組織では、退出の問題が見えやすくなります。
公務員であれば、法令、予算、税、許認可、議会、住民対応などについて、深い制度知識を蓄積できます。大企業でも、複数部署の調整、社内規程、固有の業務システムを理解する力が重要です。
これらは決して低い能力ではありません。しかし外部では、「その組織の中だけで通じる経験」と受け取られる可能性があります。
実際には、制度を読み解く力、文書を正確に作る力、利害関係者を調整する力、複雑な案件を期限内に進める力など、他の職場でも使える部分があります。問題は、それを職務名や勤続年数ではなく、具体的な成果と技能として説明できるかどうかです。
なお、公務員が退職すれば、それまでの公的年金加入記録が消えるわけではありません。退出費用は、権利がすべて失われるという意味ではなく、今後得るはずだった処遇、雇用保障、慣れた環境などを含む総合的な差です。
OECDの2026年対日経済審査も、長期雇用、定年制、年功的賃金といった日本の伝統的慣行が、労働移動や仕事の質を弱め得ると指摘しています。ただし、流動性を高めれば自動的に働く人が幸福になるわけではありません。安定を壊すだけなら、危険を個人へ移すことになります。
不満なのに残ることは、矛盾ではない
人が仕事を続けるかどうかは、現在の満足度だけで決まりません。
概念的には、次のように考えられます。
退出の利益 = 新しい環境で得る期待利益 − 現在失う便益 − 移動費用 − 不確実性
現在の仕事への満足が低くても、失う便益と不確実性が大きければ、退出の期待利益はマイナスになります。その場合、残ることは意志の弱さではなく合理的な判断です。
問題は、残った後に何が起きるかです。
- 状況を変えるために意見を述べる
- 配置転換や仕事の再設計を求める
- 現在の条件を受け入れ、関与を続ける
- 在籍したまま心理的な距離を取る
退出が難しく、意見を述べても変わらないと感じれば、最後の選択が増えます。これは「静かなる退職」で論じた、雇用関係を維持しながら追加努力を抑える行動にもつながります。
安定した組織で静かなる退職が生じるのは、不思議ではありません。退出費用が高いから在籍を続け、改善の期待が低いから関与を下げる。この二つは同時に合理的になり得ます。
「辞めるか、耐えるか」の二択にしない
退出が難しいからといって、今すぐ転職すべきだという結論にはなりません。重要なのは、選択肢をゼロにしないことです。
失うものを具体的にする
現在の給与だけでなく、退職給付、休暇、通勤、福利厚生、雇用保障、仕事量、健康への影響を項目別にします。「何となく怖い」を、何をどの程度失う可能性があるのかへ分解します。
組織固有の経験を、外で通じる言葉に翻訳する
「税務を担当した」「調整業務をした」だけでなく、どの程度の案件を、誰と、どのような制約の下で処理し、何を改善したのかを記録します。経験を成果、技能、再現可能な方法として表現します。
小さく外部市場を知る
求人を見る、必要な資格を調べる、応募前の経歴整理をするなど、報酬を得ない情報収集の段階でも、外部市場への理解は進みます。転職を決めてから初めて外を見るより、不確実性を小さくできます。
仕事以外にも能力を使う場所を持つ
学習、創作、地域活動などを通じて、勤務先で使われない能力を維持します。これは「能力と環境の適合」で考えた、能力の遊休化を防ぐ方法でもあります。
生活側の退出可能性を高める
固定費、貯蓄、健康、住居などを整えれば、収入が一時的に下がる選択にも耐えやすくなります。お金の効用は消費だけでなく、嫌な環境から離れられる選択肢にもあります。
こうした準備は、必ず辞めるためのものではありません。外へ出られる可能性を持ちながら残ることで、在職が「他に選べない結果」から「比較したうえでの選択」に変わります。
組織が守るべきなのは、定着率だけではない
組織にとって、経験ある人材が残ることには価値があります。しかし、辞めた場合の損失を大きくすることだけで人をつなぎ止めれば、在籍率は高くても、意欲と適応力は弱くなります。
望ましい定着には、次の条件が必要です。
- 組織内で職務や専門分野を選べる
- 管理職以外にも処遇される専門職経路がある
- 外でも通用する研修と資格を認める
- 異動によって専門性を無条件に切断しない
- 改善提案や配置希望を安全に伝えられる
- 長く勤めた人にも、次のキャリアを考える機会を与える
外で通用する能力を育てれば、転職者が増えると組織は心配するかもしれません。しかし、辞められないから残る人より、辞めることもできるが残る人の方が、組織との関係は健全です。
おわりに――本当の安定は「辞めなくてよい」と「辞められる」の両立である
安定した職業ほど辞めにくいのは、臆病だからでも、変化を嫌うからでもありません。
安定には実際の価値があり、勤続とともに、組織内の信用、将来の便益、固有の技能、生活との結びつきが積み上がるからです。それらを失う可能性を考えれば、不満があっても残ることは合理的です。
しかし、安定が長く続くほど、外部で使える能力と選択肢が細くなるなら、安定は次第に依存へ変わります。
望ましいのは、雇用を不安定にして人を動かすことではありません。
辞めなくても生活を守れることと、必要なら辞めても生活を立て直せること。その両方があって、初めて安定は自律と両立する。
本当の安定とは、同じ場所に縛られることではありません。残ることも、離れることも、比較したうえで選べる状態なのだと思います。
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