「ごく普通の人生でいい」

そう言うとき、私たちは何を思い浮かべるでしょうか。

大学を出る。正社員として就職する。結婚する。住宅を買う。子どもを育てる。会社で少しずつ昇進し、退職金と年金で老後を暮らす。

特別な成功者ではない。大きな失敗もない。日本社会の中央付近を、周囲と同じ速度で進んでいく人生です。

このような人生を「普通」と呼べた時代がありました。

しかし、現在はどうでしょうか。

大学を出ても非正規雇用になる人がいます。正社員でも賃金が上がらず、住宅や子どもを持つ決断ができない人がいます。結婚しない人、転職する人、親と暮らす人、子どもを持たない夫婦、一人で老後を迎える人も珍しくありません。

それぞれの人は存在しています。社会の中央値にいる人が物理的に消えたわけではありません。

消えつつあるのは、多くの人が自分を重ねられる一つの標準人生です。

「普通の人」が消えるとは、平均的な人間がいなくなることではない。「これを歩めば普通に生きられる」という共通の経路がなくなることである。

本稿では、普通を懐かしむだけでも、多様化を無条件に称賛するだけでもなく、標準人生が崩れた後に何が起きるのかを考えます。

「普通」は、性格ではなく人生の組合せだった

私たちは「普通の人」という言葉を、人間の種類のように使います。

しかし、実際の普通は、複数の条件の組合せです。

  • 学歴は高校卒または大学卒
  • 雇用は正規雇用
  • 世帯は夫婦と子ども
  • 住居は持ち家
  • 収入は勤続とともに上がる
  • 老後は退職金と公的年金
  • 地域や職場に一定の人間関係がある

一つ一つの条件を満たす人は、今も大勢います。

問題は、これらをすべて、決まった年齢と順序で満たす人が少なくなったことです。

仮に、七つの条件をそれぞれ七割の人が満たすとしても、同じ人が七つすべてを満たす割合は七割にはなりません。条件が完全に独立しているという単純な仮定なら、0.7の7乗で一割を下回ります。現実には条件同士が関連するため、この計算をそのまま使えませんが、多数派の条件を組み合わせても、その全部を持つ人は多数派とは限らないという点は変わりません。

正社員だが未婚。既婚だが子どもはいない。子どもはいるが持ち家ではない。持ち家はあるが不安定就労。大卒だが低所得。

誰もが、どこか一項目で「普通」から外れます。

国民総中流とは、所得だけの話ではなかった

「一億総中流」という言葉は、全員の所得が同じだったという意味ではありません。大企業と中小企業、都市と地方、男性と女性、正規と非正規の差は当時もありました。

それでも、多くの人が、自分を「中」に置ける共通の物語がありました。

  • 今日より明日の生活が少し良くなる
  • 長く働けば賃金が上がる
  • 結婚し、子どもを育て、住宅を持てる
  • 子どもは親より高い教育を受けられる
  • 大きな富はなくても老後まで見通せる

重要だったのは、現在の所得額だけではありません。自分も同じ経路に乗っているという将来への期待でした。

高度成長期から安定成長期には、企業、家族、住宅、社会保障が一つの人生モデルを支えていました。男性の長期雇用と賃金上昇を前提に、配偶者が家事や育児を担い、住宅ローンを返し、退職後は年金を受け取る。

このモデルは、性別役割を固定し、そこから外れる人を見えにくくしたという大きな欠点もありました。女性の選択、未婚者、離婚した人、障害や病気のある人、非正規で働く人にとって、必ずしも公平な「普通」ではありませんでした。

それでも、制度同士が一つの経路を前提に接続していたことは確かです。

雇用が分裂すると、人生全体が分裂する

標準人生の入口にあったのは、安定した雇用です。

2025年の労働力調査では、非正規の職員・従業員は2128万人でした。総務省統計局の年平均結果が示すように、現在の雇用は正規と非正規だけでも大きく分かれています。非正規で働く理由は、正規の仕事がないことだけでなく、時間の都合、家計補助、育児や介護との両立など多様です。

したがって、非正規雇用を一律に「失敗」と呼ぶことはできません。

しかし、雇用形態が違えば、賃金だけでなく、次の選択も変わります。

  • 将来所得を見通せるか
  • 賃貸住宅の審査や住宅ローンを通れるか
  • 結婚や出産の費用を引き受けられるか
  • 病気や失業に耐えられる貯蓄を作れるか
  • 企業年金や退職金を得られるか
  • 職業能力を長期的に形成できるか

雇用は人生の一項目ではありません。住宅、家族、子育て、老後へつながる基盤です。

そのため、入口で生じた差が、年齢とともに人生全体の差へ広がります。

結婚も、「当然の通過点」ではなくなった

結婚についても、変化は単純な「若者の結婚離れ」ではありません。

第16回出生動向基本調査では、「いずれ結婚するつもり」と答えた18~34歳の未婚者は、男性81.4%、女性84.3%でした。多数は結婚意思を持っていますが、前回調査から男女とも低下しています。また、未婚者の約3人に1人は交際を望んでいませんでした。

結婚したい人、したくない人、条件が整えば考える人が併存しています。

ここで大切なのは、結婚しないことを直ちに不幸と見なさないことです。結婚は、幸福そのものではありません。親密さ、相互扶助、家族を得る可能性がある一方、葛藤、拘束、経済的負担も生みます。独身にも、孤独や将来不安とともに、自己決定、自分の時間、静けさ、自由があります。

自律的幸福ポートフォリオで考えたように、幸福の供給源は家族だけではありません。

しかし、日本の制度や慣習の多くが夫婦世帯を前提に作られているなら、結婚しない自由が広がっても、一人で安定して暮らす費用は高いままです。

価値観は多様化したが、制度は標準家族のまま。このずれが、「選んだ自由」と「選ばざるを得なかった孤立」を見分けにくくします。

「普通」の費用だけが高くなった

標準人生は、価値観の変化だけで崩れたのではありません。維持する費用も上がりました。

大学教育、都市部の住居、結婚式、住宅購入、子どもの教育、老後の備え。これらを一つずつ見れば、必ずしも贅沢ではありません。しかし、すべてを一人または一世帯の勤労所得でそろえようとすると、大きな負担になります。

一方、雇用と所得の予測可能性は弱くなりました。

かつて「普通」と呼ばれた人生が、現在では複数の条件に恵まれた人だけが完遂できる、難度の高い計画になっています。

普通の人が贅沢になったのではない。かつて普通と呼ばれた人生の取得費用が上がり、それを支えた雇用と家族の仕組みが弱くなった。

この変化は、公務員のボーナス報道にも表れます。

安定雇用、定期昇給、年2回の賞与、退職金は、かつて多くの勤労者が目指せる中流生活の一部でした。民間側の標準が分裂した結果、その仕組みを維持している公務員が、「普通の勤労者」ではなく「恵まれた比較対象」に見えるようになりました。

普通の水準を広げる代わりに、まだ普通を維持している人を引き下ろしたくなる。ここに、国民総中流社会が崩れた後の対立があります。

メディアに登場する「普通の人」は、平均ではない

ニュースや広告では、しばしば「普通の家庭」「一般的な会社員」が登場します。

しかし、その人物像をよく見ると、条件が多すぎます。

  • 首都圏に住む
  • 正社員の夫婦
  • 子どもが二人
  • 持ち家または住宅購入を検討
  • 自家用車を保有
  • 年に一度は旅行する
  • 教育費と老後資金を同時に準備する

これは統計的な平均というより、商品や政策を説明しやすい「標準世帯」です。

単身者、高齢の一人暮らし、ひとり親、非正規労働者、子どものいない夫婦、親と同居する成人、地方から都市へ出られない人は、現実には大勢いても、標準像の外へ置かれます。

その結果、人々は、実在する多数派と比べるのではなく、編集された架空の普通と自分を比べます。

そして「自分だけが遅れている」「何かを間違えた」と感じます。

普通が消えると、比較は穏やかになるのか

一つの普通がなくなれば、人は自由になる。確かに、その面はあります。

結婚しない人生、子どもを持たない人生、転職を重ねる働き方、地方に残る選択、会社で出世を目指さない生き方を、以前より公に選べるようになりました。

しかし、共通の基準が消えれば、比較まで消えるわけではありません。

代わりに、小さな基準が大量に生まれます。

  • 同年代より年収が高いか
  • 結婚しているか
  • 子どもがいるか
  • 持ち家か賃貸か
  • 管理職になったか
  • 友人が多いか
  • SNSで充実して見えるか
  • 一人で幸福だと言えるか

以前は一つの標準人生に沿って比較されました。現在は、複数の物差しで同時に評価されます。

どれか一つでは上にいても、別の一つでは下にいる。誰もが優越感と劣等感を同時に持ちやすくなります。

「上級国民」という言葉が広がる背景にも、この分裂があります。何をもって上級とするかが曖昧だからこそ、自分が持っていない条件を持つ人を、その都度「上」に置けます。

標準人生へ戻せば解決するのか

では、正規雇用、結婚、持ち家、子育てという以前の標準へ、全員を戻せばよいのでしょうか。

それは現実的でも、望ましくもありません。

以前の標準は、企業内の長期雇用、男性稼ぎ主、女性の無償ケア労働、若い人口、持続的な経済成長を前提にしていました。選択肢を狭め、その経路から外れた人へ強い圧力をかけた制度でもあります。

取り戻すべきなのは、一つの生活様式ではありません。

普通の人生に付属していた安定を、異なる人生にも配り直すことです。

  • 転職や非正規雇用を経験しても能力形成を続けられる
  • 単身者でも住居と老後を確保できる
  • 結婚の有無で社会保障の安全性が大きく変わらない
  • 子どもを持つ人の費用を家族だけへ集中させない
  • 病気、障害、介護で標準経路を外れても生活が崩れない
  • 年齢にかかわらず学び直しと再出発ができる

同じ道を歩かせるのではなく、違う道でも同程度の尊厳と安全へ到達できるようにするのです。

自分の幸福を、「普通」の代理で測らない

制度の問題とは別に、個人にもできることがあります。

社会は、幸福そのものを外から測れません。そのため、観測しやすい指標を幸福の代理にします。

  • 結婚している
  • 大企業や役所に勤めている
  • 持ち家がある
  • 子どもがいる
  • 役職が高い

しかし、穏やかに眠れるか、自分の時間があるか、生活に納得しているか、無理な人間関係に拘束されていないかは、外から見えません。

「平均的に幸福になりやすい人生」と「自分にとって最適な人生」は一致しないことがあります。

だから、標準人生を全面的に否定する必要も、それへ自分を無理に合わせる必要もありません。多くの人に有効だった経路として参考にしながら、自分の体力、性格、経済条件、幸福の供給源に合わせて組み替えればよい。

これは、社会的成功を諦める話ではありません。

社会的成功と主観的幸福を、別の変数として扱うということです。

おわりに――普通の人ではなく、普通に生きられる社会を

「普通の人」は、もともと一つの人格ではありませんでした。

安定した雇用、結婚、家族、住宅、昇進、退職金、年金を一続きにした、戦後日本の制度的な組合せでした。

経済と人口が変わり、価値観が多様化した現在、その組合せを完遂する人は少なくなっています。各項目では多数派であっても、すべてを持つ「普通の人」は見つけにくい。

普通が消えることには、二つの意味があります。

一つは、単一の生き方から解放されることです。結婚、出世、持ち家だけを幸福の条件にしなくてよくなる。

もう一つは、標準人生に付属していた雇用保障、家族内扶養、住宅取得、老後保障から外れる人が増えることです。自由と不安定化は、同時に進みます。

目指すべきは、「普通の人」を復活させることではない。どの人生を選んでも、普通に暮らせる社会を作ることである。

大学へ行くか。結婚するか。子どもを持つか。家を買うか。会社に残るか。

その答えが人によって違っても、住居、医療、所得、つながり、老後という生活の土台まで失わない。そこではじめて、多様化は、弱い人へ危険を移す言葉ではなくなります。

そして個人は、社会が用意した「普通」を幸福の代理にせず、自分が何から満足を得て、何を避けたいのかを自分で測る。

普通の人が消えた後に必要なのは、新しい普通を一つ決めることではありません。

普通でなくても、普通に生きられること。

それが、標準人生の後に作るべき社会なのだと思います。

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